三年目のこの日

東日本大震災から今日で三年。
もう三年なのか、まだ三年なのかは人それぞれだろう。

僕は東京で暮らし、都心が勤務地であったけれど、あの日は修理に出していた車の引き取りの為に午後は都心にはいなかった。陽気も悪くなかったから駅から徒歩でも40分は掛かろうかという郊外の修理工場に歩いて向かい、修理工場であの時を迎えた。

修理工場の馴染みの工場長がドイツ車の修理をしていて、その脇で自分の車の修理箇所の説明を受けていた。工場長の第一声は今でも憶えている。

『働き過ぎかな、目眩がしてくらぁ』

直後に立っていられないくらいの本震が来た。事務所からは事務スタッフが、修理中の車の下から整備員が飛び出す様に出て来た。周囲の建物からも、まるであぶり出される様に人々が飛び出して来た。

『なんだこりゃ。初めてだよな、こんなの。。。』

少しだけ落ち着きを取り戻して来た後に、修理の終った車で家路に。普段なら20分の道のりが2時間掛かった。その間、自分の車も前後の車も常に揺れているのが黙視できるほどだった。東北沿岸に押し寄せる津波は渋滞中のカーナビのテレビで見ていた。これは現実なのだと知りながら、映画なのかCGなのかという雰囲気で冷静に見つめていた事を憶えている。

それから先の日本の混乱ぶりは言わずもがなだ。

あれから1000日程度。
震災後の復興の旗頭となる政府でも首相は何代も変わり、変わるたびにどこかしら不手際は前政権のせいという雰囲気はある。あれほど福島の人々を苦しめた原発を再稼働し、あまつさえ海外にそれを売り込んでいる。あれほど、全員を故郷に還すと声高に叫びながら今では「移住も含めて最適な道を支援する」にすり替わった。

政府や行政だけではない。
直後からそこら中に溢れた日の丸や東北の地図をモチーフにし、スローガンをあしらったステッカーは少しずつくたびれて、風景に同化してメッセージの効果は皆無だろう。ボランティアという名目で現地に言った人々は今では何をしている?継続している人はどれほどいるのだろうか?世界中の耳目を集めた東北で、今もって避難生活を余儀なくされている人々の数を言える人はどれほどいるのだろうか?震災で両親を共に亡くしてしまった孤児が、今どうやって暮らしているのか知ろうとする人々はどれほどいるのだろうか?

あれほど神妙だったメディアも、震災前と変わらぬ番組編成に戻り、この時期だけドキュメンタリー番組を編成する。まるで8月に編成される戦争関連のそれと早くも似て来た様に感じる。戦争の悲惨さを知らぬ世代が、数の論理で勢いを増す指導者に引っ張られる形で気軽に戦争という言葉を口に出す様になった。震災の教訓もいつかはこうやって風化してゆくのだろうか。

人の悲しみなんて、その当事者でなければわかるはずもない。
だから、あの悲劇の代弁などはできないけれど、自分も含めた「外野にいた」多くの人々の変遷は自分なりに思うと事はたくさんある。「飯を食う為に必死な選手」のプレーに野次を飛ばしてもスタジアムから出て飲み屋に入る時には別の話題で大いに盛り上がる「外野」。それが人だという事はよく理解しているつもりであるが、なんとも複雑な気持ちになる。

人類は常に発展をしながら豊かさや知性を手に入れて来た。
けれど、火というものを発見して何万年も経つのに未だに火事はなくならない。という感じで変わるものもあれば、変われないもの、もしくは変わらないものも数多くあるのだと思う。

「人々」という括りで考えるとなんとも高い壁に思ってしまうけれど、「自分」というスタンスで考える事で少しだけ気が楽になる。「人々」がどうであれ、自分がいかに考えて行動するか。という風に。

三年目の今日は京都で迎えた。
この日、考える事は自然災害ということだけでなく、どう自分の「芯」と向き合いながら生きてゆくかという事でもあるように思えている。

Written by Yuichi Seshimo STAGEWORKS.inc


 

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